50代で銀行マンからJリーグへ転身、そしてBリーグ・チェアマンからびわこ成蹊スポーツ大学学長へ
52歳で銀行マンからJリーグへと転身。その後、2リーグに分裂した日本バスケットボール界に身を投じ、Bリーグ・チェアマンとして新リーグの立ち上げを成し遂げ、その隆盛に尽力。
2021年10月よりびわこ成蹊スポーツ大学学長に就任し、22年9月より一般社団法人日本バレーボールリーグ機構副会長も兼務する大河正明さんに、自身のキャリアを振り返ってもらうと同時に、今の時代、シニア・ビジネスマンのキャリア構築には何が必要なのか聞いた。
これからの時代に必要なビジネスマンの心構えとは…。
プロフィール
びわこ成蹊スポーツ大学学長
1958年5月31日生、京都市出身。洛星高校、京都大学法学部卒。1981年、三菱(現・三菱UFJ)銀行入行。
95年から97年まで当時の社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に出向。
同行でリテール営業部部長、理事・支店長などを務める。2010年10月退行後、11月にJリーグに転身。
管理統括本部長・クラブライセンスマネージャーを経て、Jリーグ理事・常務理事を務める。
15年、JBA(公益財団法人日本バスケットボール協会)のガバナンス強化と組織改革推進のため専務理事・事務総長に就任し、同9月よりBリーグ・チェアマンとして新リーグ立ち上げを行う。
20年7月よりびわこ成蹊スポーツ大学副学長。21年10月より同大学学長。
22年9月より一般社団法人日本バレーボールリーグ(現ジャパンバレーボールリーグ)機構副会長(現バイスチェアマン)も兼務する。
子供の頃からリーダー気質があった大河さん
京都市西京区で育った大河さんは、背が高かったせいか幼稚園の頃からリーダーっぽい子供だった。
走っても速かったし、相撲をやっても強かった。幼稚園の先生がOGだった…という影響で京都女子大附属小学校へ進学。
しかし女子大の付属ゆえ中学高校は男子の募集がなく、受験の上で洛星中学校・高等学校に進学。進学校だけにこの頃「上には上がいるんだな」という感慨も芽生えたという。
バスケットボール部に打ち込んだ中高時代
洛星ではバスケットボール部に入部。これが後にBリーグ・チェアマン就任のきっかけとも言えるだけに興味深い。
「ハンドボール部が強かったので入ろうかと考えていたんだけどね、小学校の一年先輩がバスケをやっていて『バスケ部に入ろう』と手紙もらいましてね」と翻意。
真剣にバスケと向き合う学生生活を送った。
中学入学時の3年生世代は京都府で優勝。京都で上位を争うのは当然という雰囲気の中、強豪校でありながら火曜、水曜、土曜しか練習をしない昭和の時代としては一風変わった部活動だった。
これは当時の顧問・木村観次先生の方針だったという。バスケ部は誰でも入部できるという制度ではなく、各学年とも10人しか入部できない。
だが、逆に1年生にもひとりにひとつのボールが支給され、同じ背番号の先輩が面倒見よく後輩の世話をしてくれるシステムだった。大河さんは「7番」だったため、逆に上級生になった際は7番の1年生を教える担当となった。
時は昭和40年代。体育系の部活動では今から想像もできない理不尽さが付きものだった。
「幸運なことにコートのモップがけも1年生だけでなく上級生も一緒に行った。上下関係もフラットだったし、ハラスメント等のインテグリティの問題はまったくなかったですね。定期試験で部活が一週間休みになる。それでも朝とか勝手に自主的に練習する…そんな自主性に溢れた部活でした」。
ティーン時代のこうした背景はのちJリーグやBリーグ組織の運用についてガバナンスに非常に重きを置くようなった起点となっているのかもしれない。
木村先生に一度だけ怒られたことは今でも記憶に残っている。
「たぶん、2年生の秋で先輩たちが引退していて気がぬけていたのか、練習がぬるかったんでしょうね。『人間、生きているうちに日本一になれるチャンスはそうあるもんじゃない。日本一になれるかもしれない時になぜ自分で積極的に練習しないのか』と怒られました。確かに『そうか!』と思わされたものです」。
学長を務めるびわこ成蹊スポーツ大学では、「サッカー日本一プロジェクト」を遂行中。これは木村先生の一喝に影響を受けているかもしれないという。
結局、日本一にはなれなかったが全国大会に出場。1973年11月の『月刊バスケットボール創刊号』には、この「全中」に出場した際の模様が掲載された。
「全中で掲載された学校で、毎日練習していなかったのは洛星だけでしたね」と目を細めて笑う。
京都大学法学部へと進学
大河さんはこうして中高を洛星で過ごし京都大学法学部へと進学。
これについても「僕の人生、消去法から来ているんですよ」と振り返る。
「数学は好きだったんですけど、理数系じゃないな…と思いましてね。法学か経済か、なんとなく法学のほうがカッコいいかな…と(苦笑)」。
当時はまだ学生紛争時代、授業の合間に角棒でヘルメットという出で立ちの学生が入学式の会場や教室に現れ、演説をぶって出て行くなどは日常茶飯事。
それでもやはり校風か、非常に自由な気質があったそうだ。
「京大はとにかく放任主義でしたね。授業に出るのか出ないのか、卒業するのかしないのか、すべて自己責任。そこで自分で考え、成長でき、現在の土台が出来上がったと思っています」。
新卒で銀行マンとして働き始める
卒業後、三菱銀行に入行(現在の三菱UFJ銀行)。当時の銀行は規制金利時代。
預金金利等の各種の金利が「公定歩合」に連動していたため、「公定歩合」が変更されると、こうした金利も一斉に変更される仕組みだった。
「つまり、どこの銀行に行っても商品は同じ。自分の人間力でお客さんを掴むことができると思ったわけ。自分の人間力で会社を伸ばしていけると勝手に思った」。
それが銀行に決めた理由だった。
以降も「今ある選択肢の中で楽しいものを選ぼうと思って来ただけなんだけどね」
銀行の異動は約5年ごと。
「それが銀行で長続きした理由かもしれないけど」と吐露しつつ、転機となったのは30歳過ぎで配属となった企画部だと語る。
「企画部は(銀行の)保守本流でありつつ先進的だった。収益管理を担当したのだが、丸の内に本店と丸の内支店がほぼ隣同士で存在する。そこには銀行として大型店舗の支店長という非常に重いポジションもある。他にも様々な街で支店が隣同士にある状況を見て、『支店の数を半分にしよう』と言ったら怒られるかな…と提案したら、意外なことに褒められた(笑)。そこでプレゼンテーション能力や、論理的にどう伝えるべきなのか、さらに先を読む力や変革の力が磨かれたと思います。1990年代の頭ですね。ダイナミックさもありました。」
後年のキャリアに大きく影響を及ぼすこととなったJリーグ出向
そんな折1995年5月、まだ創設間もないJリーグへ出向となる。当時、Jリーグは3シーズン目。
これは後年、大河さんのキャリアに大きな影響を及ぼす出来事となった。
「まだバブル甚だしい雰囲気も残っていましたが、出向してどんな仕事をするのかはまったく想像できなかった。当時はJリーグを強くしたい、事業的に大きくしたいという思いの方がたくさんいらっしゃって、その考えを聞き現実的に仕事に落とし込んでいくのが僕の仕事なんだろうなと考えていました」
と回想する。大河さんは2年2カ月の出向期間中、J2構想に関与。これが1999年にスタート、3部制となるその後のJリーグの礎となった。
100人以上の部下を抱えた支店長時代
大河さんは銀行へ帰任後、神奈川県の鎌倉と東京都の町田でそれぞれ支店長を務めた。この際の部下は100人以上。
「やはり組織として100人の規模となると、どこまでを自分が率先し、どこまでを部下に任せるかが課題となります。スポーツ界に来たときに、これはずいぶんと助けになりました」
と組織の扱いに長けていたのは功を奏したという。
銀行マンからJリーグに転身
大河さんが自身のキャリアの中で、もっとも大きく舵を切ったのは、やはり52歳の時だろう。
銀行に戻った以降も何度かJリーグから誘いは受けていた。だが、Jリーグが「クラブライセンス制度」導入を検討していると聞かされ
「なるほどね。これはやっぱりJリーグに行くべきだよなと…。クラブライセンスをしっかりやっていかないと(クラブが)自立できない。Jリーグだけでなく、日本のスポーツの発展につながるな」
と考え、銀行を辞しJリーグにチャレンジした。
「やはりスポーツに関わる人たちの社会的価値を上げたいと勝手に思ってね、今でも思っていますけども…。それで家族にも内緒で銀行を辞めることに決め、内緒っていうか、言わなかっただけですよ」
と笑った。
「クラブライセンス制度」はドイツで導入されたのがはじまりとされ、クラブのリーグ戦参加資格基準となっていた。
欧州サッカー連盟(UEFA)はチャンピオンズリーグへの参加資格として2004-05シーズンに導入。これがライセンス制度の各大陸への普及により拍車をかけた。
日本サッカー協会(JFA)では10年5月20日の理事会で「クラブライセンス制度のJリーグへの権限委譲の件」が協議され、アジアサッカー連盟(AFC)の制度に基づき人事組織、財務、法務、競技、施設と5つの分野において一定の基準により審査を行い、ライセンスを交付する方針となった。
大河さんは元銀行マンとしてクラブの財政面、経営面などを支援、これは銀行で企業に融資を行う際と変わりがない作業だったがゆえ、銀行で育まれた知見が生かされた。
「銀行を辞めようと人事部へ相談に行ったら『得体の知れないスポーツの組織に移って本当に大丈夫ですか?』と言われました」と当時を振り返り笑い飛ばす。
その後、Jリーグにて常務理事まで務めるが、2リーグに分裂していた日本のバスケットボール界に改革が迫られると、そこに助け舟を出したJリーグ初代チェアマン川淵三郎さん(現・日本トップリーグ連携機構代表理事会長)に声をかけられバスケ界へ転身することに。
これはやはり自身が学生時代にバスケを経験していた影響は大きかった。
「その時は夢中だったからリスクなんて考えなかったけど、今振り返るとなかなか。2015年春に返事した時は従業員ゼロで売上見込みもゼロでしょ。新しいリーグを立ち上げトップになる。成功しなかったら、給料は出ないと思った。それから急いで人を集め翌年9月にはリーグを開幕させないといけなかったわけですから…」。
15年4月にJBA事務総長候補となって以来、Bリーグ・チェアマンを退任する20年6 月までバスケ界に寄与。19年7月1日に「BEYOND 2020」と銘打った将来ビジョンを発表。
26年に大きく姿を変える「Bリーグ改革」を打ち出した。任期だけを考えれば23年まで登板の予定だったが、そうなるとこのBリーグ改革を途中で投げ出す形になる。
大河さんはこの「改革」を後任に託すことを決断。20年6月にチェアマンを退いた。
「現在のBリーグは年間約330万人の入場者数がある。これはコロナ期を除いてはジリジリと右肩上がりに成長しています。こうした成長は大きく崩れないものです」とバスケ界の隆盛も見守る。
びわこ成蹊スポーツ大学の学長にもチャレンジ
大河さんの新たな冒険は、またここから新しいステージに。
Bリーグを退こうと決意した夜、早稲田大学スポーツ科学学術院スポーツ科学部・間野義之教授と会食すると、大阪成蹊大学がスポーツビジネス研究所(現スポーツイノベーション研究所)を作る計画が持ち上がっていた。同教授のアレンジにより、2020年4月大阪成蹊学園の石井茂理事長との打ち合わせが実現。
スポーツイノベーション研究所の所長に加え、系列のびわこ成蹊スポーツ大学の学長まで勧められた。結果、20年7月よりびわこ成蹊スポーツ大学副学長、21年10月より同大学長に就任。
22年9月からは一般社団法人日本バレーボールリーグ機構副会長も兼務している。
大河さんの語るエイジレス時代
かつてサラリーマンは55歳定年制。勤め上げれば「悠々自適」の人生…そんな時代もあった。
しかし人生100年時代と謳われつつ、現在は大企業の正社員でも定年前に早期退職を言い渡される時代。
大河さんのように次々と請われる方もいれば、「会社にしがみつくしかない」と愚痴る知命のサラリーマンも多い。
年齢にとらわれない働き方を実践する「ageless時代」現在のビジネスマンに必要な心構えについて訊ねた。
「年功序列、終身雇用の社会では、知らず知らずのうち、年齢とともにマーケット・バリューよりも給与が上がってしまっているケースが多いわけです。そうなると、もう身動きがとれない。今の時代、定年後に年金だけで生活を立てて行くことが難しいですよね。そうなると若い時から自分の価値を考え、常に自分をバリューアップしていかなければなりません。例えば転職市場に自分をさらけ出し、自分のマーケット・プライスを常に意識しておく。僕も銀行員という肩書があるから入って来る情報、投資してもらえる価値があるという点は、30代ぐらいから考えるようになりました」
大河さんは旧態依然とした日本の雇用システムにほころびが見えた今、自身のマーケット・プライスをしっかり把握することが大切だと説く。
「サラリーマンもみなプロフェッショナルなわけですよね。スポーツ選手は次回の契約で自身の年俸が上がるのか、またはそうでないか常に意識している。サラリーマンもそうした意識を持つべきだと思います」
agelessの時代、働き続けるための意識改革が必要なのかもしれない。
最後に大河さんはBリーグのチェアマン時代をこう振り返った。
「辞める時、『毎日100メートルを全力で走っていたんだな』と思いましたね。それなので、最後はちょっとバテてました(苦笑)。でも、それもやはり仕事が楽しかったから。四六時中働いていても、楽しかった。そんな仕事を見つけられると、自身のバリューを上げることができるんじゃないでしょうか。与えられた仕事だけやって土日は必ず休みたい…それだけではマーケット・プライスは下がるばかりだと思います」
大河さんは現在、学長としての責務を果たしつつも、Vリーグの副会長としてバレーボールの価値向上にも邁進中。
そんな活躍から、我々はまだまだ学ぶことができるのではないだろうか。